はじめて宝塚を見たのと、ショーというコンテンツについて思ったこと
芝居を見るだなんてましてや宝塚だなんてガラでなかったけれども、id:sunagimomoko に誘われてついに来てしまった東京宝塚劇場。 僕は曲がりにもバンド活動なんてやっていて、それなりに「ショー」について考えることはしばしばある。 そういう視点から見て、一流のよく考えられた観劇はショーとしてやはり素晴らしいものであった。 特に、綿密に練るべきところはトコトン追い込む一方で、役者の個性とか才能とかそういうのでえいやってやってしまったほうが良い所はそれでメリハリが効いていて、 そのあたりのバランス感覚は本当に素晴らしいと思った。 あと、映像作品に毒された我々にとっては、照明や役者の動きその他諸々の効果によって視線が自然に誘導されるというのに本当に驚いた。 だって、セットの入れ替えに全く気づかないのだもの。 これは本当に勉強になったと感じたし、僕が普段やっているバンドのライブでもよく考えたいと思った。
とはいうものの、全部が全部手放しで素晴らしかったと言い切れるかと言うとそんなこともなく、どうもこの手の観劇に共通して見られる古臭さというのは拭えなかった。 振り付けやセリフ回しなどが良く言えば伝統的、悪く言えば古風なところに起因していそうだ。 ただ、それが一概に悪いものであるとは言い切れなくて、テレビなどのメディアの普及によってメインストリームのコンテンツの質が変化する中で、リアルな場としての観劇にそのような伝統的あるいは古風な性質が求められていたとも考えられる。 けれども、最近では例えばコピー可能なデジタルコンテンツに対するアンチテーゼとしての「リアル」が再び注目され始めているし、もしかしたら一般論としての「ショー」に求められるものも変わってくのではないかとも思った。 そうやって考えると、宝塚にとってこれから出現するであろう(パッとももクロが浮かんだのがアレだが)ライブコンテンツは脅威になりそうだ。 もちろん宝塚は僕なんかの素人と違ってその辺きっと考えているであろうけれども、一介のショー好きとしては新たな形での展開はワクワクするし是非挑戦して欲しいな…などと上から目線してみたのだ。
ただ、ショー的なもの、無制限に大規模複雑化していけばよいものというわけでもないので、結局その辺り冒頭のバランス感覚みたいなところに戻る。 集団でなにかを実現するという行為は、そのゴールが違ったとしても多かれ少なかれ共通点があるなあと思ったり。